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6話 それは天使か悪魔か

last update Last Updated: 2025-03-17 14:30:13

 部屋に引きこもったまま数時間。キルシュはベッドに移って突っ伏していた。

 使用人が夕食を運んでくれたが、返事をする事はおろか起き上がる気にもなれず、食事が乗せられたワゴンは廊下に置かれたままだった。

(言ってしまったからにはもう巻き戻せない……)

 キルシュは寝返りを打ち、仰向けになる。

 そうして薄く目を開けて、ぼんやりと天蓋の裏を眺めた。

 時刻は既に十二時を回っただろう。使用人の足音や会話さえ聞こえず、屋敷中シン……とした静謐に包まれている。

 明かりもつけずに何時間も真っ暗闇の中にいたので、暗順応で部屋の輪郭ははっきりと見えた。何も考えないでいた方が良い。気が滅入って、心が壊れてしまいそうだ。だから、こうしてぼんやりして寝落ちしようしているのに、頭も心も散らかり、どうにも義兄の顔が不機嫌な顔が浮かぶ。

 そして続け様に、学院長、性格が悪いクラスメイトたちの顔まで……。

 耳の中にこびりついた自分を蔑む言葉の数々に、キルシュは手で目を覆って唇を拉げた。

(こんな力いらないよ……欲しくなかった)

 再び嗚咽を溢すと、キルシュの手のひらから蔓が伸び、白い小花が次々に綻び、散った。

 好きで、能有りで生まれたわけではない。できる事なら、そんなものは持たないで生まれたかった。

 かといって、自分を不幸とは思わないし、恵まれすぎている待遇だとは思っている。

 ……この屋敷に来た時、義父から部屋を与えられた。

『今日からここがキルシュのお家だ』

 そう言って、ドレスや装飾品を沢山与えられて、街に出掛けた時には可愛らしいお人形も買ってもらった。欲しいものは何でも与えてもらえて、美味しいものや甘いものも食べさせてもらって、記憶喪失とはいえ幸せな幼少期を過ごさせてもらった。

 それに家庭教師を付けてもらえたし、十四歳でパトリオーヌ女学院に入学し、充分すぎる程の教育も受けさせてもらった。

 どう考えても、ごく一般的な十七歳よりも恵まれている。否、怖い程に恵まれているのだ。

 だが、改めてまじまじと考えると、自分の存在意義とは何だろうかと思う。

 貴族の娘に課された最大の勤めは、結婚だ。しかし、自分は養子で……。

 それももとは、身元不明の孤児……。忌まれた能有りで、成績は最底辺。政略結婚の使い道なんてあるのだろうか? と、今更のように疑問に思った。

 それでも屋敷の為に、いつかは結婚するのだろうか。相手は貴族ではなく、地方豪族や商人だって考えられる。

 恋にはずっと憧れているが、まじまじと考えるほどに出来損ないの自分が花嫁になるのは、何だか想像できなかった。

 それに使用人たちもよく自分の噂をしているのは、キルシュも知っている。

 皆「お嬢様」として優しく丁寧に接してくれるが、その裏では「問題を起こしてばかり」「忌々しい能有り」「どうしてあんな子を養子に引き取ったのか……」なんて言葉は何度も耳に入っていた。

 そして義父が病死して、イグナーツが当主になった時には「お父様が善意で引き取ったあんな子を残されて、イグナーツ様が可哀想」と……。

 つまり屋敷にとって、お荷物なのだと。

 来年の秋にはキルシュは学院を卒業する。 その後の事なんて、規則正しい学院生活を送る日々の中ではまともに考えられなかったが、今更のように不安に思えてきた。

 その頃には十八歳を超えて、成人だ。この屋敷に戻るのか。縁談があるのか不明だ。

 そんな時、脳裏に新しい想像が過った。

(成人したら私、ここを追い出されるかもしれない)

 伯爵家に来てからの養育費・生活費・雑費全て返せと義兄に請求される事もありうるだろう。横たわったキルシュは身を硬直させる。

 はたして、そうなってしまったら、どうやって返せばいいのだろう。

 帝都外れの方にあると言われている、色街の路上に立つだとか、娼館の扉を叩き、「雇って下さい」なんて言う事になるかもしれない。

 そして、裸同然の破廉恥な恰好でショーケースに入れられて、路上を歩く男を誘惑して客引きする……。

 どんどん広がる想像……否、妄想に、キルシュは目を白黒とさせて頭を抱えた。

  なにせ、若い女が大金を稼ぐにはやはり売春しか無いのだ。それに能有りの女はまともな仕事につけない者も多いそうで、貧困者が多く、売春婦になる者も多いと聞く。それも一般民とは比べにならないほどに自分に付けられる値段は格安だそう。

 これらは全部、古本市で購入した〝ちょっと過激な恋愛小説〟の中にあった知識で決して明確では無いが……。

(……本当に私は何の為に生きているの? 存在意義って何?)

 これからどうしよう。そんな不安を吐き出すように、ため息を一つつき、キルシュが瞳を伏せた──その時だった。

『ケケケ……あんたさぁ~自分の事、本当はすごく不幸だって思ってるだろ? まぁ、びっくりする程に幸が薄いな~って思うけどさぁ』

 途端にどこからか聞こえたのは少年の声とも少女の声とも言えない子どもの声だった。

 何事か。キルシュは驚き、慌てて跳ね起きる。

 その時だった。目の前にはさらさらとした砂粒のよう、金色の光の粒子が空気中に漂った。まるで砂が動くよう、流れるように一つに纏まると、眩い光を放ち、真っ白な鳩が羽ばたき現れた。

 ──怪奇的非現実を目の当たりにしてしまった。

 畏怖に顔を引き攣らせたキルシュはシーツを掴んで、身を強ばらせる。

『いいかぁ、騒ぐなよ? 怯えるなよ~? ぼくは普通の人間には見えないから、あんたが騒いだら、とうとう気が触れた変人だって思われるからな?』

 そう言って鳩は羽繕いをしながらキルシュに説明した。

  いや、それでも喋るなんて怖すぎる。キルシュは畏怖に震えたまま鳩を見つめた。

 別に鳩の見た目、自体は怖くない。

 暗闇の中で淡く光るのでこの世の者とは思えないが、雪のように白い羽毛に赤い瞳が印象的な鳩だった。

 そんな鳩は、羽繕いを終えると、キルシュにちょこちょこと歩み寄ってくる。

「ひっ……」

『おい馬鹿。だから怖がるなって。キルシュが嫌いなのは虫。鳥が嫌いじゃないのは知ってるんだよ。ぼくは無害なんだから』

 失礼な奴だなぁ。なんて、ムスッとして言われた。

 神々しく可愛い見てくれの癖に「おい馬鹿」なんて。口が悪い事に驚いた。ましてや、可愛らしい子どもの声だから。

 しかしそれ以上に驚かされたのは……自分の名を知っている事で。

「なんで……名前」

『知ってるさ、そんくらい。なぁ徒花?』

 その不名誉なあだ名まで知っているなんて……。

 自然と握りしめた手には植物の蔦が芽吹くが『茨は出すなよ』と鳩に呆れて笑われた。そうだ、とりあえず落ち着こう。

 深く息を吐いて吸っての深呼吸。そうする事で、気持ちが落ち着き、蔓草の具象は解かれ金の粒子になって空間にキラキラと漂い消え失せた。

「……あなた、何者?」

 自分を宥めるように、落ち着いて聞くと鳩は「ケケケ」と笑い「神様の遣い」なんて悪戯気に言う。

 ありえなくはない話だろう。しかし、この笑い方や口の悪さは悪魔の遣いのようにも思えてしまう。

『徒花。おまえさぁ馬鹿じゃねーの? 本当は辛くて苦しいなら、さっさとこんな家とっとと出て行けばいいじゃん。だいたいおまえってさ、何かと理由をつけて甘えてなーい?』

 ──足りない思考で同じ事ばかり考えて、過去にほんの少し与えられた幸せや優しい思い出に縋ってさ。どうしょうもないクソアマとしか言えねぇんだけど。

 なんて、嫌味ったらしく鳩は付け添えた。

 的確だった。確かに、この屋敷に来たばかりの頃、義父に与えられた幸せやイグナーツが優しかった過去には縋り付いている。しかし、こんな言い方は無いだろう。それにこうも心の中を知られているのも気味が悪い。

 その瞬間確定した。こんな神々しいが、これはどうやら悪魔の遣いな気がする。本能がそう言っているのだ。

 キルシュは、枕元に置かれたクッションを必死に投げて鳩を追い払おうとするが……羽ばたいて逃げられてしまう。

『やーめーてーよー! 暴力反対! すぐ怒る女の子こわーい! キレ症!』

「あんたがそうやって暴言吐くからでしょ! 私の事を色々と知ってるみたいだけど、なんなの、怖いのよ! 消えなさいこの悪魔!」

 思わず大声で叫んでしまって、キルシュは慌てて口を塞ぐ。

 そうだ。今は深夜。それに悪魔消えろなんて叫んでいたら、本当にこの鳩の言う通り、気が触れておかしくなったと思われるだろう。

『そう。騒がない方がいい。徒花の為にもね』

 だからその呼び方はやめて欲しいが……。キルシュは眉間を揉んでため息をつく。

 ……この世界は、今も尚、神や精霊を信仰しているし信じている。

 しかし現代は、馬車だけではなく、都市部は車も走り始めている。蒸気機関車も走っていて……製錬や工業が発展している。

 きっと聖職者だって喋る鳩が出てきたらきっと腰を抜かしてしまうだろう。

 キルシュは半眼になって、自分の膝に留まった鳩を見た。たった数分だが、この非現実にもう随分と慣れてきていた。

 自称神様の遣い。喋るだけで、確かに別段害はなさそうで……。

『やっと落ち着いた? たださぁ、自分がどうしたいのか意思くらい持てよーって言いたいの』

  ──なぁ徒花のキルシュ。おまえは何の為に生きるんだ? おまえは、自分の存在意義をどうしたいの?

 そう付け添えて。鳩は真っ赤な瞳でキルシュを射貫く。

 はたして、何が為に生きるのか? 自問自答を含めて今日で何度目だろう。キルシュはやはり答えを出せなかった。

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