部屋に籠もって、何時間が経っただろう。キルシュはベッドに突っ伏したまま動けずにいた。
夕刻には食事が運ばれてきたが、起きる気力もなく、返事もしなかった為、ワゴンは廊下に置かれたままだ。
(……言っちゃった。もう、巻き戻せない)
寝返りを打って仰向けになると、薄く開けた目に、天蓋の裏がぼんやりと映る。
時刻は既に深夜。屋敷はしんと静まり返り、足音一つ聞こえない。
電灯もつけず真っ暗な部屋の中、暗順応で部屋の輪郭だけがかすかに浮かぶ。目は冴えて、眠気は一向にこなかった。(何も考えない方が良い……)
そう願うのに、頭の中はぐちゃぐちゃに散らかっていた。
イグナーツの不機嫌そうな顔。学院長。皮肉な笑いを浮かべるクラスメイト。耳にこびりつくのは、蔑みの声ばかり。(こんな力、いらない。欲しくなかったよ)
再び涙が滲むと、キルシュの手のひらから蔓が伸び、小さな白花が静かに綻び、そして散った。
好きで能有りに生まれたわけじゃない。
……でも、自分が不幸だとは思わない。むしろ、幸せすぎるくらいだった。最も古い記憶……この屋敷に来た日、義父は優しかった。
『今日からここがキルシュのお家だ』と笑い、ドレスも装飾品も、お人形も、欲しいものは何でも与えてくれた。甘いお菓子、可愛い靴、部屋に差す陽の光。幸せそのものだった。十四歳で学院に入れてもらえた。家庭教師もついた。教育も、生活も、何ひとつ不自由はなかった。
──怖いくらいに、恵まれていた。
けれど、それでも……心にぽっかりと穴が開いている。
だが、改めて考えると、〝自分の存在意義〟は何だろうかと思う。
貴族の娘に課された最大の勤めは、結婚だ。
しかし、自分は養子で身元不明の孤児。忌まれた能有りで、成績は最底辺。政略結婚の使い道なんてあるのだろうか? と、今更のように疑問に思った。 それでも屋敷の為に、いつかは結婚するのだろうか? 相手は貴族ではなく、地方豪族や商人だって考えられる。 恋にずっと憧れているが、考えるほどに出来損ないの自分が花嫁になるのは、想像できなかった。 それに使用人たちもよく自分の噂をしているのは、キルシュも知っている。 皆「お嬢様」として優しく接してくれるが、その裏では「問題を起こしてばかり」「忌々しい能有り」「どうしてあんな子を養子に引き取ったのか……」なんて言葉は何度も耳にしていた。 義父が亡くなり、義兄が当主となった今──自分はただの「お荷物」だろう。 なぜに今の今まで思いつかなかったのか。 十八歳を迎え、成人すれば、この屋敷を追い出されるかもしれない。──結婚だなんて甚だしい。もしかしたら、全て請求されるかもしれない。
育ててもらった代償として、生活費や衣服代、食費、学費……全てを返せと。 新たな不安に、キルシュは戦慄いた。 はたして、そうなってしまったら、どうやって返せばいいのだろう。 (まさか、帝都外れの色街に立つの? 娼館の扉を叩いて「雇ってください」なんて頭を下げるの? ショーウィンドウの中で裸同然の格好で並べられて……)くだらない妄想だと分かっている。それでもありうるかもしれない。
キルシュは頭を抱えた。……なにせ、若い女が大金を稼ぐには売春しか無い。
それに能有りの女はまともな仕事につけない者も多く、売春婦になる者も多いと聞く。それも一般民とは比べにならないほどに安価で。 これらは全部、古本市で購入した〝ちょっと過激な恋愛小説〟の中にあった知識で嘘か本当か定かでは無いが。「……私は、何の為に生きてるの? 存在意義って何?」
ぽつりと問いがこぼれた。──その時だった。
『ケケケ……おまえさぁ~自分の事、本当はすごく不幸だって思ってるだろ? まぁ、びっくりする程に幸が薄いな~って思うけどさぁ』途端にどこからか聞こえたのは少年の声とも少女の声とも言えない子どもの声だった。
驚いて跳ね起きたキルシュの目の前に、砂粒のような金の粒子がふわりと舞う。
粒子が流れ、集まり、一羽の白い鳩が姿を現した。羽ばたいたその様は、神々しく、どこか現実味がない。 ──怪奇を目の当たりにしてしまった。 顔を引き攣らせたキルシュはシーツを掴んで、身を強ばらせる。『いいかぁ、騒ぐなよ? 怯えるなよ~? ぼくは普通の人間には見えないから、おまえが騒いだら、とうとう気が触れた変人だって思われるからね?』
そう言って鳩は羽繕いをしながらキルシュに説明した。
いや、それでも喋るなんて怖すぎる。キルシュは畏怖に震えたまま鳩を見つめた。 雪のように白い羽毛。赤い瞳。その姿は愛らしいが、喋るその事実が怖い。それに、暗闇に淡く光っているのも怖い。羽繕いを終え、とことこ近寄ってくる鳩に、思わず小さく悲鳴を上げた。
「ひっ……」
『おい馬鹿。だから怖がるなって。キルシュが嫌いなのは虫。鳥が嫌いじゃないのは知ってるんだよ。ぼくは無害なんだから』失礼な奴だなぁ。なんて、ムスッとして言われた。
神々しく可愛い見てくれの癖に「おい馬鹿」なんて。口が悪い事に驚いた。ましてや、可愛らしい子どもの声だから。 しかしそれ以上に驚かされたのは……自分の名を知っている事で。「なんで……名前」
『知ってるさ、それくらい。ねぇ徒花?』その不名誉なあだ名まで知っているなんて……。
自然と握りしめた手には植物の蔦が芽吹くが『茨は出すなよ』と鳩に呆れて笑われた。そうだ、とりあえず落ち着こう。 深く息を吐いて吸っての深呼吸。そうする事で、気持ちが落ち着き、蔓草の具象は解かれ金の粒子になって空間にキラキラと漂い消え失せた。「……あなた、何者?」
『神様の遣いだよ』冗談みたいに笑いながら言う鳩。だけどこの毒舌ぶりでは、むしろ悪魔の遣いに思えてしまう。
『ねぇ徒花。おまえ、さっさとこんな家出てけばいいじゃん。何かと理由つけて、甘えてばっかりじゃない?』
──与えられた幸せに縋ってるだけ。くだらないくて無意味だよ。馬鹿みたい。
続けて言われた鳩の言葉は痛いほど的確だった。だけど、だから
こそ腹が立つし気味が悪い。まるで心を覗かれているようで。「消えなさい、この悪魔!」
思わずクッションを投げたが、鳩はひらりと羽ばたいて逃げた。『やーめーてーよー! 暴力反対! すぐ怒る女の子こわーい! キレ症!』
「あんたがそうやって暴言吐くからでしょ! 私の事を色々と知ってるみたいだけど、なんなの、怖いのよ! 消えなさいこの悪魔!」思わず大声で叫んでしまって、キルシュは慌てて口を塞ぐ。
そうだ。今は深夜。それに悪魔消えろなんて叫んでいたら、本当にこの鳩の言う通り、気が触れておかしくなったと思われるだろう。『そう。騒がない方がいいよ? 徒花の為にもね?』
だからその呼び方はやめて欲しいが……。 キルシュは眉間を揉んでため息をつく。 ……この世界は、今も尚、神や精霊を信仰しているし信じている。 しかし現代は、馬車だけではなく、都市部は車も走り始めている。蒸気機関車も走っていて……製錬や工業が発展している。 きっと聖職者だって喋る鳩が出てきたらきっと腰を抜かしてしまうだろう。 キルシュは半眼になって、自分の膝に留まった鳩を見た。 たった数分だが、この怪奇に随分と慣れてきてしまった。 自称神様の遣い。喋るだけで、確かに別段害はなさそうで……。『やっと落ち着いた? たださぁ、自分がどうしたいのか意思くらい持ちなよーって言いたいの』
──ねぇ、徒花のキルシュ。おまえは何の為に生きるいる? おまえは、自分の存在意義をどうしたいの?
そう付け添えて。鳩は真っ赤な瞳でキルシュを射貫く。
はたして、何が為に生きるのか?
自問自答を含めて今日で何度目だろう。キルシュはやはり答えを出せなかった。その夏の盛り。キルシュとケルンはツァール西部の地、メーヴェを後にした。 向かう先は海の向こう。西の島国、イフェメラだった。 帝都炎上から半年以上。 混乱の最中、二人の生存が世に知れ渡れば、再び騒乱の種になってしまうだろう。 それを避け為にも、静かな隠居の地を求めて、今こうして波に揺られていた。 あの日から、二人はブリギッタが治める西部領地の屋敷に身を潜め、使用人として暮らしていた。 ──キルシュに関しては、生活力に長けていた事もあり、家事において他の使用人に劣る事はなかった。 一方のケルンも、頭の回転が早く、計算や帳簿付けの手腕に優れており、領地の管理を多忙にこなすブリギッタにとって、大変心強い助けとなっていた。 だが、いくら優秀であろうと、若い恋人同士というのはなかなか隠し切れないものがある。 暇さえあればケルンがキルシュにちょっかいをかけ、彼女を膝に乗せては愛でる始末。休憩時間にはおやつを「あーん」と食べさせ合い、夜には寄り添ってバルコニーでいちゃいちゃと月を眺める。 ──つまるところ、目に余るほどの馬鹿っぷるだったのである。 そうしてとうとうブリギッタは痺れを切らし、ある日、二人を呼び出し分厚い封筒を渡した。 そこには金色の文字でこう記されていた。『使用人(仮)退職金』と……。 その額は、慎ましく暮らせば三年は生きていける程。 労働力に見合わないあまりに多すぎる退職金にキルシュが「正気?」と猛抗議をしたのは言うまでもない。「うるさいわね! 私はあんたより頭が良いのは存知でしょう? こっちは貿易で儲けのある金持ち貴族よ。黙って貰っておきなさい」 と、一蹴りされてしまったのである。 しかし、真意は後にユーリから知らされた。 「見ていて苛立つ」というのも、あながち嘘ではなかったが―― 本当のところ、ブリギッタが気に病んだのはケルンの立場だった。 存在を隠され、間引きされた筈の第一皇子。 皇帝が退位を表明した今、もし彼の存在が明らかになれば、次期皇帝の権限すら持つ可能性がある。 彼自身は「そんな器じゃない」と、謙遜していたが……だからこそ、二人がツァールに居続ける事は不安材料だったのだ。「……事実、俺たちがツァールに居るだけで、また国が揺れる恐れはある。ブリギッタ嬢の厚意に甘えよう
※ 永遠の夜、ナハトを討った後の記憶は、あまりにも曖昧だった。 それはまるで、どこまでも長い夢を見ていたような、静かでゆらゆらとした時間だった。 ──きっと、自分は死んだのだろう。キルシュは、そう理解していた。 視界は真っ黒に塗り潰されて、どこにいるのかも分からなかった。 意識だけはしっかりとあるのに、目は見えず、声も出せず、身体も動かせなかった。 ただひとつ、分かっていた事がある。 まるで凪いだ水面をたゆたっているような、静かで優しい感覚。 母親の胎内の記憶がもしあるなら、きっとこんなだろうなとでもいった感覚だ。 それでも確かだったのは、自分の手が誰かの手と固く繋がれていた事だった。 無骨で温かく、どこか懐かしい手のひら。 目に見えなくとも、声が聞こえなくても、それがケルンの手だと、キルシュには分かる。『もう離さない、ずっと一緒』 声が聞けずとも、そう言われているような気がしたのだから。 それだけで、どこか安心できて、怖さは不思議と感じなかった。 けれど──夢から目覚める直前、キルシュはクレプシドラの声を聞いた。『我は未熟な神故に、変則的な使徒を二つも留め続ける事はできない。……だが、お前たちの生を強く望む者がいる。再生の聖痕と、芽吹きを支える光の聖痕を引き換えに、お前たちをあるべき場所へ還そう』 そんな言葉だったと、ぼんやりと思い出す。 そして、どれほどの時が過ぎたのかも分からぬまま──キルシュは誰かの声に呼び戻されるように、ゆっくりと意識を取り戻した。 目を開けた時、そこは見覚えのない部屋。 そして、目の前では散々自分をいびってきた筈のクラスメイトが、大粒の涙を溢して抱きしめていたのだ。 それはまるで、夢の続きを見ているようだった。 けれど、現実は確かに動いていた。 帝都は本当に炎に包まれたのだと知らされた。──あれから、もう半年が経っているらしい。 自分は、西部領地
書き物机に向かい、帳簿に向かうブリギッタは深いため息をつきながら、眉間を揉む。 帝都炎上からというもの、女貴族たちは皆、忙しない日々を送っていた。 本来、ツァールの女貴族の務めといえば──花を愛で、刺繍に親しみ、教会での慈善バザーに顔を出す事。特に何もせずとも聡くある事。これが仕事だ。 けれど、帝都が崩れて以来、領主である男性たちはみな帝都の復興の為に出向き、留守を預かるのは女たちとなった。 しかし、女手さえ足りていない領では、聖職者や名門家が代わりに政を担っているとも聞く。 ──それでも、やはり「学識こそ宝」と教えられてきたのは間違いではなかった。 計算ができる事が幸いし、数字に纏わる事務作業をそつなくこなせる事で、今の自分をどれほど助けているか。 だが、問題は量だった。 支援物資、避難民への義援金、それらに関する出納帳が山積みとなって、日が暮れても帳簿の終わりは見えなかった。 (……さすがに、くたびれるわね) ブリギッタは癖も無い青肌色の髪をくるくると指に絡めながら、暗算に集中していると──バタン、と扉が荒々しく開く音がして、思わず眉をひそめる。 見なくても誰が入って来たか分かる。 乱れた金髪に碧眼、息を切らしながら駆け込んできたのは──帝都からともに逃れてきた南部辺境地・ヴィーゼ伯爵家の使用人、ユーリだった。 「ブリギッタ嬢、大変だ!」 彼はまるで火急の知らせでもあるかのように声を張り上げる。 ──彼とは、帝都崩壊の最中に知り合った。学院で負傷したブリギッタを、キルシュの命を受けて、メーヴェの領地まで送り届けてくれた恩人だ。 その後、帰郷するように言ったものの、彼は「神堕ろしの証人」だと語り、南部への帰還をためらった。 恩義と恐れ。そのどちらもが彼の胸にあったのだろう。結果、彼は西部に留まり、屋敷の雑務を手伝ってくれていた。 まして、現在は、宗教改革が起きて、南部辺境地はまさに今騒動の渦中に置かれている。〝帰りた
推定死亡者数、八百人以上。 行方不明者、およそ千名。 帝都炎上から、半年。ツァール帝国は初夏の日差しが差し込んでいた。 だが、国全体はいまだに揺らいだまま。 ツァール聖教、そして国の統治そのものが、足元から崩れていった。 国教は邪教崇拝だった。 聖職者たちや諸派の上位に就いていた者たちが次々と、自らの罪を告白し懺悔を口にした。 その中心に立っていたのは、南方辺境を治める辺境伯イグナーツ・ヴィーゼである。 彼が従っていたという《蝕(エクリプセ)》と呼ばれる諸派は、一般にはほとんど知られていなかった。 それは、まるで富裕層だけが入会できる会員制組合のように、水面下でひっそりと活動していたという。 彼らは語った。 来るべき戦乱と国の衰退を見越し──能有りたちを生贄に〝神堕ろし〟という、悍ましい儀式に手を染めたと。 その結果として、帝都に現れた禍々しき機械仕掛けの偶像が現出したのだと、イグナーツは語った。 信じ難い話ではある。 だが、目の当たりにした人々の多さが、疑念を打ち消した。 更には、その信憑性に拍車をかけたのは、皇帝陛下自身の懺悔だった。 ──陛下は、第一子が能有りであった事から、精霊返しを行っていたと、衆目の前で告げたのである。 ……その子息が、生きている事を知り、機械仕掛けの偶像の器に捧げたのだと。 更に、過激諸派《蝕》の支援を行っていた事も……。 邪教に手を染め、罪の無い犠牲を多く出した。もはや、この国の上に立つ資格は無い。 陛下は事態が落ちつき次第、退位を宣言した。 だが、災いを呼んだ《蝕》、更にはそれを支えた皇帝すら裁ける者は、もはやこの国に存在しなかった。 なぜなら、誰もが同じく邪教に呪縛され、盲信の果てにあったからだ。 洗脳が解けた今となっては、皆が等しく同じ立場に違いない。 帝国性は廃止となるだろう。公国となる
片や、正面からナハトに対峙したキルシュは、うつむきながらも小さく笑い出した。 「ねぇ……頭が悪い私が言うのもなんだけど、憎悪の神って随分と知能が低いのね? 貴方、私の本当の願いをまるで見抜けてない。私は彼の教えてくれた《希望》だけは、絶対に忘れられない」 ──だから、私は貴方に《心》なんて渡さない。 強く言い放ち、顔を上げたキルシュは、瓦礫の上に倒れていたファオルに鋭い視線を投げる。 「いつまで寝たままでいるの! 甘えないで! あなたの目と耳は、今まで何を見て、何を聴いてきたの? 私とケルン、二人分の信仰と《心》じゃ、まだ足りないのかしら!」 ──目覚めなさい、クレプシドラ! キルシュの叫びに応えるよう。ファオルの身体がまばゆい金の光に包まれ、渦巻く粒子がひとつの人影を形づくっていく。 『我は未熟で、不甲斐ない神。だが、その声は確かに聞き届けた』 厳かだが、どこかファオルに似た子どもの声だった。 やがて光が晴れると、翠の髪と黄金の瞳を持つ、小さな人の姿が現れた。 白を基調とした短いローブには、繊細な金の幾何学模様が縫い込まれている。耳にはファオルの瞳に似た赤い飾りが揺れ、胸元には金の砂が詰まった砂時計──それが、刻を司る神・クレプシドラだった。 ──亡きツァイト王国で信仰されていた古の神。男とも女ともつかない、まるで人形のように愛らしい子どもの姿をしていた。 「この国なんてどうでもいい。でも、罪もない人たちが苦しむのはもう嫌。未来には希望がある筈。憎悪を、闇を、私は打ち砕きたい」 ──その加護を、私に。……《心》は、二つじゃ足りないの? 問いかけるキルシュに、クレプシドラは静かに首を横に振る。 『加護は与えられる。だが、おまえは生きた人間だ。己の《心》を我に委ねれば……その身体は持たぬ。しかも我が身の一部、《聴く者》の願いは──』 途端にクレプシドラの耳飾りは赤々と光った。 これがファオルの本当の姿なのだろう。 きっと『自己犠牲などしないと言ったじゃないか』と言っているような気がした。 ファオルの泣きじゃくる声が自然と頭に過る。 それを悟ったキルシュは、クレプシドラに歩み寄り、赤い耳飾りに唇を寄せた。 「馬鹿ね。私だって自己犠牲なんてくそくらえよ? ただ、こんな迷惑な邪神を野放しにしておきたくな
直後、機械仕掛けの偶像は、花びらが舞うようにキラキラと光に還っていった。 残されたのは、彼──ケルン自身。 侵蝕はすでに深く進んでいたものの、人の姿を取り戻した彼は、釣り上がった黄金の瞳を細め、無骨な腕でそっとキルシュを抱き寄せる。 「キルシュに、最後のお願いがある。……俺の《心》を全部、貰ってくれないか。ひでぇ事、言ってるのは分かってる。これが最後の我が儘だ……その先、別の誰かと結ばれたっていい。でも俺、キルシュにだけは、忘れられたくない」 どこで息をしているのかも分からない、消え入りそうな声だった。 彼は、何度もキルシュに謝罪の言葉を繰り返した。 キルシュは、彼の手を強く握りしめ、何も言わずに頷いた。 拒む理由が見当たらなかった。 否、受け入れるべきだと、はっきりと思えた。 これが運命で、これが生きる意味なのだと……。 キルシュは、か細い息を上げる彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。 もう力が残っていないのだろう。彼はただ、やんわりとキルシュの唇を食む。 その瞬間──キルシュの脳裏には、夥しい彼の記憶が一気に流れ込んできた。 ──レルヒェの市場へ使いに出た少年時代。 盗みを疑われた彼を庇ってくれた、茜髪の小さな少女がいた。 子供たちの中で一番のチビ。強気なくせに、すぐ泣いてしまう。 その少女の名は、熟れた桜桃を思わせる茜色の髪にふさわしく、キルシュといった。『ケルンに意地悪しないで!』 稚い声で泣き叫んだあの日から、彼は彼女に惹かれていた── 素直で、純粋で、笑った顔が格別可愛い。そんなキルシュが初恋だった。 時を経て、礼拝堂のステンドグラスの下で、永遠の友情を誓い合い、未来では恋人として生き、必ず守ると誓った事。 運命に引き裂かれたあの日の、底知れぬ絶望と憎悪。 啓示として渡された未来の断片……自ら選んだ運命の事。